月の光が淡く降り注ぐ、秋の夜長。虫の音がりんりんと響き渡る中、平兼盛は自邸の書斎で、文机に向かっていた。しかし、その手に持つ筆は一向に進まない。硯の墨は乾き始め、上質な料紙にはまだ一文字も記されていなかった。
兼盛は、ふう、と深く息をついた。その息は白くならぬまでも、夜気の冷たさを帯びている。彼の視線は、開け放たれた格子窓の外、中天にかかる朧月へと向けられていた。月影の下で、彼の脳裏にはただ一人の女性の面影が繰り返し浮かび、そして消える。それは、先日の歌合で垣間見た、ある高貴な姫君の姿だった。控えめながらも気品に満ちた佇まい、ふとした瞬間に見せた憂いを含んだ眼差し、鈴を転がすような可憐な声…。思い出すだけで、兼盛の胸は甘く締め付けられるような痛みを覚えるのだった。
兼盛(内心):
「ああ、あの方のことを思うだけで、このように心が乱れるとは…。この身分、この立場では、軽々しく想いを口にすることなど、できぬ相談。ましてや、あのように雲の上におわすお方に対してなど…」
彼はぎゅっと唇を引き結んだ。この燃えるような恋心は、決して誰にも悟られてはならない。己の胸の内に深く、深くしまい込み、誰にも気づかれぬように、平静を装い続けねばならぬのだ。それが、宮廷に仕える者としての、そして何より、あの方への敬意の表れだと信じていた。
兼盛:「…よし。気を取り直して、公務の文を仕上げねば。」
彼は自らに言い聞かせるように呟き、再び筆を取った。しかし、一度乱れた心は容易には静まらず、書き始めた文字はどこか震えているように見えた。
日々の公務、宮中での務め。兼盛は努めて冷静に、普段通りに振る舞おうとした。しかし、心の内は常に波立っていた。同僚たちとの談笑の輪に加わっていても、ふとした瞬間に心が上の空になり、話の内容が耳に入ってこないことがある。和歌の会に招かれれば、自作の歌を披露する際にも、どこか言葉に力がこもらない。むしろ、他の歌人が詠む恋の歌に、過剰なほど心を動かされてしまうのだった。
ある日の昼下がり。清涼殿の渡殿を歩いていた兼盛は、ふと庭先に咲く菊の花に目を留めた。その色鮮やかな美しさに、彼はまたしても姫君の優雅な装束を重ね合わせてしまう。そして、知らず知らずのうちに、深い溜息が漏れた。
友人A:「おや、兼盛殿。いかがなされた? 何やら浮かないお顔で、大きな溜息をついておられたが。」
背後から声をかけられ、兼盛ははっとして振り返った。親しい友人の一人である貴族が、心配そうな、それでいて少し揶揄うような表情で立っていた。
兼盛:「ああ、いや…何でもない。少し、考え事をしていただけだ。この菊が見事だと思ってな。」
慌てて取り繕う兼盛だったが、その声は微かに上ずり、表情もどこか不自然だった。友人は怪訝な顔をしたが、それ以上は追及せず、肩をすくめてみせた。
友人A:「ほう、さようか。だが、近頃の殿は、どうも物思いに沈んでおられることが多いように見受けられるぞ。何か悩み事でもおありかな?」
兼盛:「いやはや、そのようなことは…」
彼は作り笑顔で手を振り、その場を足早に立ち去った。背中に友人の訝しむような視線を感じながら、兼盛の心臓は早鐘のように打っていた。
兼盛(内心):
「いけない、いけない…。これでは、あまりに分かり易すぎるではないか。もっと…もっと、平静を装わねば。」
数日後、内裏の庭園を散策していた兼盛は、思いがけない光景に足を止めた。向こうの小径を、数人の女房に囲まれて、ゆっくりと歩いてくる一行。その中心にいるのは、紛れもなく、彼の心を占めて離さない、あの姫君だった。
秋の柔らかな陽光が、姫君の艶やかな黒髪と、淡い色の袿を照らし出している。遠目にも分かるその気品と優雅さに、兼盛は息を呑んだ。心臓がどきりと大きく跳ね、全身の血が沸き立つような感覚に襲われる。彼は咄嗟に近くの木の陰に身を寄せ、息を潜めてその姿を見守った。姫君は傍らの女房と何か言葉を交わし、小さく微笑んでいる。その笑顔が、まるで矢のように兼盛の胸を射抜いた。
兼盛(内心):
「ああ…なんという美しさだ…。」
見つめているだけで、頬が熱くなるのを感じる。動悸はますます激しくなり、呼吸すら少し苦しい。彼は必死に平静を装おうとしたが、身体は正直だった。
同僚B:「おや、兼盛殿。このようなところでお会いするとは奇遇ですな。…む? どうかなされましたか? お顔がずいぶんと赤いようですが。もしや、日の光に当てられすぎましたかな?」
偶然通りかかった別の同僚が、兼盛の異変に気づき、声をかけてきた。兼盛はぎくりとし、慌てて袖で顔を覆うようにしながら答えた。
兼盛:「あ、いや…少し風が冷たいものでな。それより、何かご用向きかな?」
努めて落ち着いた声を出そうとしたが、動揺は隠しきれなかった。同僚は不思議そうな顔をしながらも、用件を話し始めたが、兼盛の意識は、遠ざかっていく姫君の後ろ姿に釘付けになっていた。
兼盛(内心):
「危なかった…。まさか、顔に出ていたとは…。これほどまでに、私の心は脆かったのか。」
その夜、兼盛は最も親しい友人の一人である藤原朝忠(ふじわらのあさただ)の邸に招かれていた。二人きりで酒を酌み交わしながら、和歌や世間話に興じていたが、兼盛はやはりどこか上の空だった。庭の紅葉が月光に照らされて美しく輝いているのを、ただぼんやりと眺めていた。
朝忠は、しばらく黙って杯を傾けながら、そんな兼盛の様子をじっと観察していた。彼の目には、いつもの明晰で機知に富んだ兼盛とは違う、どこか心ここにあらずといった友の姿が映っていた。心配と、そして長年の付き合いからくる勘が、何かあると告げていた。
朝忠:「…兼盛よ。」
静かな声だったが、その響きには重みがあった。兼盛ははっとして視線を庭から朝忠へと移した。
兼盛:「ん? 何かな、朝忠殿。」
朝忠は真っ直ぐに兼盛の目を見据え、ゆっくりと言葉を続けた。その口調は穏やかだったが、探るような響きを含んでいた。
朝忠:「いや、近頃のお主のことだ。どうも様子がおかしいように思われてな。上の空であったり、深い溜息をついたり…。まるで、何か重い物思いにでも沈んでいるかのようだ。」
兼盛はどきりとした。核心に近づかれていると感じ、反射的に否定しようとした。
兼盛:「そ、そのようなことは…。少し疲れが溜まっているだけかもしれぬ。」
しかし、朝忠は兼盛の言葉を遮るように、さらに踏み込んできた。
朝忠:「ほう、疲れか。だがな、私にはそうは見えぬのだ。その伏し目がちな様子、ふとした瞬間の表情…まるで、誰かを強く想い、そのことで心を悩ませているかのようにも見える。…なあ兼盛、正直に申してみよ。もしや、物や思ふ、のではあるまいな? 恋でもしているのではないかと、そう人が問いたくなるほどに、お主の様子にはありありと出ているぞ。」
「物や思ふ」「恋でもしているのではないか」——その言葉は、鋭い刃のように兼盛の胸を貫いた。
兼盛は息を呑み、言葉を失った。顔からさっと血の気が引き、次いでじわりと赤みが差していく。隠し通せていると思っていた。誰にも悟られまいと、必死に心を抑えつけてきたつもりだった。それなのに…。最も親しい友の、真っ直ぐな指摘の前で、築き上げてきた平静の壁は、あっけなく崩れ去った。
『忍ぶれど』——そう、心に固く誓っていたはずなのに。
『色に出でにけり』——なんと、顔色や態度に、これほどまでに出てしまっていたとは。
兼盛は、もはや言い繕うこともできず、ただ動揺と羞恥に染まった顔をわずかに伏せるしかなかった。観念したような、諦めたような、そしてどこか、指摘されてしまったことへの安堵感のような、複雑な感情が入り混じる。
朝忠は、そんな兼盛の反応を見て、すべてを察したようだった。それ以上は何も言わず、ただ静かに杯を差し出した。
兼盛は、震える手でその杯を受け取った。彼の心の中では、今しがた友に問われた言葉と、自らの隠しきれない想いが交錯し、一つの歌の形を成し始めていた。
忍ぶれど
色に出でにけり わが恋は
物や思ふと 人の問ふまで
(——ああ、隠そうとしても隠しきれないものなのだな、この恋心というものは。とうとう顔色に出てしまって、他人に「何か物思いでもしているのですか?」と問われるほどになってしまったことだよ…。)
兼盛は、胸に込み上げる切なさと、露見してしまったことへの苦い思いを噛み締めながら、月光に照らされた庭の紅葉を、再び見つめるのだった。秘めたる恋の炎は、その色を隠すことなく、彼の頬を、そしておそらくは彼の詠む歌をも、鮮やかに染め上げていくのだろう。
お次_卑弥呼。